洛中、洛外とは何?
京都は平安時代の昔(今から1200年以上前)、奈良から遷都(せんと=都が移されること)されたときに、大きな街づくりが行われたんですよね!
なんで奈良から京都へ都が移ったの?っていうのは桓武天皇(かんむてんのう)が「奈良の仏教勢力」の影響から離れたかったからです。
まぁ~このころは奈良の仏教勢力が強かったんですね!
政治にもいろいろ口出しし、首を突っ込んでくるのが桓武天皇にとっては鬱陶しい(うっとうしい)し、ウザい!って感じだったんでしょう。
そのころ、日本は優れた中国の政治や文化、産業等を学ぼうと「遣唐使」(けんとうし)を派遣して、中国(唐)からいろんな知識を吸収していました。
(中国はこのころ「唐(とう)」という国でした。)
中国では「長安(ちょうあん)」や「洛陽(らくよう)」という、過去にかなり発展した都がありました。
そこで、そういった都にあやかろうと、その真似をして都をつくろうとしたんです。
京都ってよく、碁盤の目みたいな街って言われますよね!
それらも中国の都のマネということです。
で、マネをした「洛陽」っていう中国の都の「洛」の字をとって京都のことを「洛」と言うようになったんでしょう。
そして、京都のメインの市街を「洛中(らくちゅう)」、京都の市街から外れたところを「洛外(らくがい)」と呼ぶようになりました。
蛇足ですが、今でも他の地域から京都へ行くことを「上洛(じょうらく)」と言う方がいます。
で、ここで疑問が出てきます。
つまり「洛陽」の「洛」の字を京都市街に当てはめたなら、もうひとつの都、「長安」はどうなったんだい?っていう疑問です。
それを説明するには京都の市街地(つまり洛中)が京都御所から南に伸びる道、つまり朱雀大路(すざくおおじ=今の「千本通り」あたり)によって右と左に分けられたってことを知っておく必要があるんです。
つまり、朱雀大路より東側を左京(さきょう)、西側を右京(うきょう)と呼ぶようになったんですね。
でも、ここでまた疑問がでますね!
なんで地図で見たときの左半分が右京で、右半分が左京なの?ってことです。
実は昔は天皇のおられるところから見て、右か左か・・という事が重視されました。
天皇は北を背にして太陽の通る南に面する(つまり南に向かって都がつくられている)ので、天皇の住まわれている御所から南を向いて、右側が右京、左側が左京と呼ばれるようになったんですね。
これは私たちが地図を見た場合に左が右京、右が左京と呼ばれるようになった理由です。
ところで、京都の市街地を朱雀大路から二つに分けて、右京と左京にしたのなら、どちらかを長安スタイルに、もう一方を洛陽スタイルにしたいな!って思いたくなりますよね。
やはり平安時代の天皇さんも貴族さんもそう考えたんでしょう。
天皇さんから見て右、つまり私たちが地図を見たときに左、すなわち朱雀大路(千本通り)より西である右京を「長安」と名付け、
天皇さんから見て左、私たちが地図を見たときに右、すなわち朱雀大路(千本通り)より東である左京を「洛陽」としたんですね。
で、先ほどの疑問です。
実は、面積的にも丁度半分になるように朱雀大路から右京と左京に分けたんですが、実際に住んでみると右京のほうは、ほとんどが湿地帯で家を建てても腐ってしまうし、湿り気があるために害虫も発生しやすく病気もはやりやすかったんでしょう・・という事で右京のほうはだんだん廃れていったんですね。
その分、左京の方は最初は鴨川あたりまでだったのに、川を越えてどんどん東の方に発展していったんです。
きっと最初は東山のあたりは何にもなかったんでしょうね。
なので、右京の街の参考とした「長安」の価値がだんだん薄れ、左京の街の参考とした「洛陽」が次第に京都の街そのものをさすようになったんですね。
現在は、その「洛」の字が使われて「洛南」「洛北」「洛東」「洛西」のように京都の街を何分割かにして、その場所を表すようになったんです。
今も高校の名前として「洛南高校」とか「洛北高校」がありますよね!
もし、お時間があればそういった高校の位置が街の中心街から見てどの方向にあるかを調べて見られれば面白いと思います!
参考:昔の平安京の地図に興味がある方は、1/1000の模型が京都市中京区の市生涯学習総合センター(京都アスニー)で常設展示されてますのでお立ち寄り下さればと思います!
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