日本全国には「棚田(=たなだ)」と呼ばれる段々になった田圃(たんぼ)がたくさんあります。
段々になるのは山の間を切り開いて、山の肌の傾斜と同じ高さにあわせて田んぼをつくったからですね。
もし、つくられたのが畑であったなら「段々畑(=だんだんばたけ)」と呼ばれるんですけど、田んぼの場合は棚田(たなだ)と呼ばれて親しまれてます。
ひとつひとつの田んぼがまるで棚(たな)のように見えるから棚田と呼ばれるようになったのでしょうか。
さて、そういった棚田の中から美しいものや特筆すべき特徴があるなど、
農林水産省によって選ばれた100の棚田が「棚田100選」と呼ばれています。
そのなかから兵庫県には4つ(四か所)の棚田が選ばれています。
あげますと
「岩座神の棚田」(多可町加美区岩座神)
「うへ山の棚田」(香美町小代区貫田)
「西ヶ岡の棚田」(香美町村岡区和佐父)
そして今日ご紹介する「乙大木谷の棚田」(佐用町大木谷)ですね。
さて、「乙大木谷」ってどう読むのかと言いますと(おつおおきだに)ってちょっとややこしそうですが、そのままです。
そして、(乙)があれば(甲)もあるだろうってことで調べたらやはり「甲大木谷」もありました!
でも、こちらは棚田百選には選ばれてないようですね。
さて、どちらも兵庫県の西部の佐用町(さようちょう)にあるんですが、ここで「さよか~」ってのがおきまりの播磨人のボケとなります(笑)。
・・というのは置いておいて、
ここは昔、江川(えがわ)という地名で呼ばれていたそうですが、
今は統廃合によって他の町村と合併し佐用町として一つになったようです。
そしてこの江川の地に語り継がれてきたのが陰陽師として有名な安倍晴明(あべせいめい)とそのライバルであった蘆屋道満(あしやどうまん)の最後の決戦の地だということです。
蘆屋っていう名前から兵庫県の芦屋と関係あるのかと思いましたが、どうやら関係は無さそうで、出身地はやはり兵庫県の加古川市のようです!・・って私のモロ地元です!(驚)。
陰陽師(おんみょうじ)とは古代から続いてきた役所の中の一つ(陰陽寮)で
星を観察したり、地相をみたり、占いをしたりする仕事をしていた官職の一つでした。
晴明と道満の決戦自体が平安時代の頃の話なので、伝説の域を超えることができませんけど、いろんな文献に二人のライバル関係の様子が記されてますので、あながちまったく無かった話ではなさそうです。
そして、甲乙の棚田が競い合うのと同じように、「甲」の棚田の見える位置に安倍晴明の碑が、「乙」の棚田が見える位置に蘆屋道満の碑が立っています。
勝てば官軍とはよく言われますけど、正義の安倍晴明に対して、悪の蘆屋道満というのが世間の通説となって、碑もやはり安倍晴明のほうが立派な感じがします。
おそらく、能力的にはお互い拮抗してたと思うんですが、知恵の部分、処世術の部分で安倍晴明のほうが一歩抜きん出てたように思います。
そして、戦いの軍配はやはり安倍晴明にあがりました。
遠い昔の話ですが、今でも兵庫の片田舎の山村にこういった伝説とお互いの石碑が残って受け継がれているのも不思議ですよね。
両方の碑ともなんとか近くまで車で行けますので、棚田の景色を望みながら郷土の歴史を味わってみられるのも思い出に残ると思いますよ。
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